<今回の元がん家族さんプロフィール>
T田さん(50代/会社員)
ステージ4のすい臓がんと診断された48歳の夫を4年半看病したT田さん。「今思えば」と何度も振り返りながら、がん家族の方にはもちろん、若くて元気な方にこそ伝えたい5つのことを語っていただきました。
背中の痛みを訴えた48歳の夫
――ご主人の病気の発症の経緯を教えてください。
T田:2015年のある日、主人が「背中が痛えんやな」と言ったのが始まりでした。毎日湿布を貼り続けたのですが痛みがひかず、湿布代もかさむので、私のかかりつけの内科医に行ったんです。でも、かかりつけ医も原因がわからず、「また来てください」と言われ、結局3か月ほど通院しました。
――不安な日々を過ごされたのですね。
T田:痛みはやがて激痛となり、精密検査も兼ねて大きな病院に行ってみようということになり、紹介状を書いてもらいました。
――精密検査はいかがでしたか。
T田:朝から検査が始まり、6時間も経ったでしょうか。待合室でウトウトしそうになった私も診察室に呼ばれ、若い女性の医師に「すい臓がんです」と告げられました。
――夫婦そろって告知を受けたのですね。
T田:はい、何が何だかわからない状態でした。医師が深刻そうな顔で「来週に予約入れましたから、腫瘍内科に行ってください」と続けるんですが、とにかく動揺するばかり。主人を車に乗せて帰宅し、翌週に腫瘍内科の診察を受けました。
――そこで詳しい症状がわかったのですね。
T田:がんは肝臓に転移しており、手術で取ることはできず、「ステージ4」とのことでした。
1つしかなかった選択肢
――医師から抗がん剤治療をすすめられたのでしょうか。
T田:はい、そうです。先生に「ある程度体力のある若い人でないと使えない、ものすごく強い抗がん剤が1種類だけある。一刻も早く始めるのがいい。絶対にあきらめないで」と言われました。
――ご主人と相談されたのですね。
T田:主人が生きるためには抗がん剤をやるしかない、と頭ではわかっていたのですが、「先生、少しでいいから悩ませてください」とお願いして一旦帰宅しました。主人は「抗がん剤治療で延命などせず、このままでいい」という考えを持っていたのですが、先生の強い勧めもあり、夫婦で「がんばろうか」と話し合い、抗がん剤治療を始めることを決めました。
――重要なことを急いで決断しなければならなかったのですね。
検査、すい臓がんの告知、ステージ4、肝臓への転移、手術できない、若くて体力のある人しか使えない抗がん剤、使用するかしないかの判断……次から次へと押し寄せるので本当にバタバタでした。
抗がん剤治療は通院で
――その後、入院されたのでしょうか。
T田:いいえ、通院でした。私も主人も、てっきり入院すると思っていたのですが、「この抗がん剤の治療は、通院でないとできないんですよ」と言われたので、2週間に1度、抗がん剤の注射を打ってもらいに病院に行きました。
――奥様は仕事を続けられたのですね。
T田:副作用ですごくつらいときも家で寝ているしかないので心配でしたが、私が働かなければ治療費も作れません。抗がん剤の日だけ会社を休んで、主人に付き添いました。
――経過はいかがでしたか。
T田:2年が過ぎた頃、先生がおっしゃる”強い抗がん剤”だけあって、効果が目に見えて現れた時期がありました。そのときの主人と先生のやりとりは、こんな感じでした。
「先生、あのとき俺が抗がん剤せんっち言った場合、どんだけの命だったんですか」
「半年だったよ。T田さんすごいわ。もう2年だよ」
「先生、俺治るかな?」
「すごいなあ。でも、ステージ4は変わらんから」。
――一喜一憂する夫婦の心情、お察しします。
T田:抗がん剤の効果が表れているのに、やっぱり肝臓への転移がネックで、ステージ4のままだったんです。私にしたら「ええー?」という感じでした。その一方で、2年前に先生が抗がん剤を強くすすめた理由がわかる気がしました。主人の性格や病気の経過を理解されていたんだなと思いました。
看病のつらさを抱え込む日々
――看病中、誰かに相談しましたか。
T田:いいえ。人に話したら心配をかけてしまう、背負い込ませてしまうという気持ちが先に立ってしまい、他県に住む実家の母にも言えず、同居していた主人の母にも途中まで言い出せませんでした。
――それはおつらいですね。
T田:「この気持ち、どうにかならないものか」との思いでインターネット検索し、たどり着いたのが、酒井たえこさんが主宰する「一般社団法人Mon ami」です。「がん家族の保健室」という電話相談があると知ってすぐに予約を入れ、1年間で10回くらい利用しました。電話の日が近づくたびにうれしくなりましたね。
――どのようなやりとりをしましたか。
T田:これまでの経緯、治療のこと、家族としてつらい気持ち、何を話しても「わかりますよ」「本当ね、つらいよね」と聞いてくれました。それに、「一人じゃないから」と言ってくださいました。
――気持ちが和らいだのですね。
T田:はい、とても。酒井さんには、「電話ももちろんいいけれど、会って事情を話せる人が3人くらいいるのが望ましいですよ」というアドバイスもいただきました。他にも、患者の体についてのケア、例えば足がむくんでしまったときのマッサージのやり方も教えてもらいました。
――それは良かったですね。
T田:いよいよ主人の痛みがひどくなり、私が「どうしてあげることもできない」と悩んでいると、「ずっと抗がん剤だけを続けているけど、緩和ケアも追加するという選択肢があるよ。主治医に訴えたほうがいいよ」ということも教えてくれました。酒井さんは、いろいろなパターンのがん家族さんを見ているから詳しくて、教わることが多かったですね。
緩和ケアの前にセカンドオピニオン
――それで緩和ケアを始めることになったのですね。
T田:積極的治療がなくなっていたのに、それがすんなりといかなくて。主人がかかっている病院は、主治医の先生がいる腫瘍内科のほかに緩和ケア病棟もあったので、そこでの治療をお願いしようとしたら、主治医と緩和ケアの先生がもめちゃって。いったいどういういきさつがあったのかわからないんですが、主治医の先生が突然、「T田さんの看取り、俺がするんだから!」と言ってきて、主人とびっくりしたこともありました。
――それからどうなったのですか。
T田:主人と、「いっそのこと、他の病院の緩和ケアに移ろうか」と相談しました。そんなときに、酒井さんから、移る前に主治医の見解を他の医師に確認する意味も含めてセカンドオピニオンに相談するという手段もあるよとアドバイスをもらい、お願いすることにしました。
――その時点で、抗がん剤治療から約4年経っていたのですね。
T田:主人は、腫瘍内科の主治医の先生とは長い付き合いだから、「先生を裏切るのもなあ」と言っていました。私も悩みましたが、「自分たちが納得できれば」という気持ちに切り替えてセカンドオピニオンをお願いするのがいいと思い、主人も賛成してくれました。
――セカンドオピニオンはいかがでしたか。
T田:「主治医の先生の見解は間違いないと思いますよ」と言われてホッとしました。転院についても、移動の負担を考えると今の病院がいいだろうという意見をもらい、改めて、今の主治医の先生を信じてついて行こうという気持ちになりました。
――気持ちの整理がついたのですね。
T田:それで、ようやく緩和ケアを受けることになったのです。といっても、やはり最初は通院でした。
緩和ケアを受ける意味
――緩和ケアも通院だったのですね。
T田:はい、しばらく通院してから、痛み止めの薬の調整ということで1週間ほど緩和ケア病棟にお試し入院をすることになりました。それで、「薬はこれを使っていきましょうね」という話になり、主人もこのときは体調が良くてご飯も食べられたので、「やっぱり家がいいなあ。入院は二度としない」と言っていたのですけど……。
――どうされたのですか。
T田:在宅で通院での緩和ケアを始めて2か月後、夜中に主人が腹痛を訴えたので救急で診てもらい、入院することになりました。ついさっきまで会話ができていたのに、意識がだんだん薄れていき、あっという間に酸素の管を通された状態になってしまいました。「今までがんばってきたのに」という思いで胸がいっぱいになりました。
――いよいよ、という覚悟をされたのでしょうか。
T田:緩和ケアを始めてから主人に笑顔が増えてきていたんです。だから最期の時がくるなんてまだ先だろうと思っていました。今になって思えば、当時の私は「治る」ことが大前提で今までの生活も治療も続けていました。先生は当然、死があるということをはっきりわかっていたんですよね……。でも、緩和ケアの先生が主人と私に笑顔で過ごせる、大切な時間を与えてくださったことに感謝しています。もちろん治療を支えてくれた主治医にも感謝しています。
▲写真は全てイメージです。
このインタビューは続きます。
次回は「がん家族からのメッセージ①②」
「生命保険」「お金」です。